b:トミー・ボーリン(Tommy Bolin)
ギタリスト。1951年アメリカ、アイオワ州出身。
若くして不慮の死を遂げたミュージシャンに死後、評価が付く事は多いが、トミー・ボーリンの場合、15年以上たった90年代に、突如再評価された感が強い。
日本では、リッチー・ブラックモアの後任となった第4期ディープ・パープルのメンバー、といった印象が未だに強いが、もちろんハードロックの範疇で語られる人ではない。
13歳から音楽活動を始めたボーリンの最初のプロのバンドはゼファーで、それは、LP時代にかつて日本で紹介された事もある、女性シャウターをフィーチャーしたブルーズロック。バンドの音楽に飽き足らず脱退したボーリンは、ジャズ系のセッションに加わるようになり、ビリー・コブハムの「Spectrum」('73)で注目される一方、エナジーと言うバンドを結成しては、デモ音源をコツコツつくる毎日だった(このデモが後に大量に流失)。73年にハードロックのジェームズ・ギャングに参加。2枚のアルバムでは、ダビングを重ねたスライド・ギター中心のプレイだけでなく、歌いもする。
オーディションでパープルに加わり、「カム・テイスト・ザ・バンド」を出すが、参加の条件にソロ活動の項目があったという。事実ネンペラーからでた初ソロ「Teaser」では、これまで書き溜めてた曲を、当時の一流のスタジオ・ミュージシャン(ジェフ・ポーカロ(ds)、デヴィッド・フォスター(kb)、スタンリー・シェルドン(b))をバックに演奏。バラード(”Dreamer”では、パープルのファンキー志向を共に支えた、グレン・ヒューズがコーラスで参加)、クロスオーヴァー、レゲエなど多彩な音楽が聞ける。
当時は全く無視されていた、4期パープルのアルバムでは、ファンキーな味付けのギターが、それまでの様式美重視のハードロックにうまくなじんでるとは言いがたい。けれどイギリスのハードロックバンドが、アメリカナイズされたファンキーサウンドを自分たちの物にしようと四苦八苦する様が、ドキュメントされた1枚として忘れがたい。但しそれはスタジオで作り出された「魔法」であって、ライヴでは再現できるものではなかった。
実際ドラッグ癖で散々だった75年の日本公演(当時は腕が痺れて満足なプレイが出来ないと報道された)はともかく、状態が上向きの76年初頭のライヴを聞いても、パープルに飲み込まれたボーリンの姿しか見えない。その日本公演は、当時日本のみ「ラスト・コンサート・イン・ジャパン」という企画物のライヴが製作され、その二十数年後に「This Time Around」として完全版がリリース。そこで明かされたのは、「ラスト〜」でのズタズタな編集ぶりだ。
76年にパープル脱退後、元ヴァニラ・ファッジのマーク・スタイン(kb)を中心とするバンドを結成して2枚目のソロ「Private Eyes」*1をリリース。直後の12月にドラッグのオーヴァードースで命を落としている。25歳だった。
華麗なるボーリンのギター・テクニックに関しては、不勉強ゆえ語れないが、70's半ばの黒人音楽に傾倒しつつ、それを叩き台として新しい音楽に挑戦しつつあった矢先の死だったろう。89年にゲフィンから出た「Ultimate」というコンピをきっかけに、ボーリンの身内が音源を公開し、トミー・ボーリン・アーカイヴスがスタートする。
その発掘音源のどれもが、素晴らしいとはいえないまでも、2枚のソロ、パープルやギャングのアルバムではわからない、ボーリンの姿を伝えている。
ボーリンと河合その子の話題満載(この組み合わせ嬉しすぎる!)の なあねこさんのサイト
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Guitar/2926/
*1:ジャケットに「富墓林」の文字があって、墓の字が使われてるので死んだ、という噂が真面目に語られた。そんな時代だったのだよ